「情報労連広島ピースフォーラム2019」は、8月4日~5日、約200人を集め、退職者の会からは、中央協高石副会長、支部協から、岩手 高屋敷、新潟 武石、大分 首藤、熊本 森さんの4名、そしてオブとして大阪支部協、千葉支部協からも参加して行われた。
第1日目は、ワークピア広島に13時、情報労連参加者が集まり、ピースフォーラムが開かれた。
最初に情報労連本部、書記長 北野 眞一さんが「実体験を語り継ぐ人も減ってきている。私たちは、『創り育てる平和の運動を継承していかなければならない』と挨拶。続いて、NTT労組広島原爆被爆者・二世協議会の方から、導入学習会があり、被爆二世の会の紹介や、運動等の話がされた。
続いて、被爆体験証言では、松木 忠生さん(前広島支部協会長)から、8月6日当日の話があり、松木さんは、小学校の校庭にいてラジオ体操の前に突然空が光り、爆風が襲い掛かり、胸が焼けただれ、気を失っており、先生が胸を冷やしてくれた。その後、1年生の弟と、普通の道は歩けないので、田んぼ道をゆっくり歩いて、家につくと、お母さんが、胸をしっかり冷やしてくれた。その後父親と近所の軍事務所に向かい、そこにあった食料(特に米)を沢山持ち帰り、近所に配り、自分の家が、被爆者の避難所になったのでその人たちに出したのを強烈に覚えている。その後も、胸は痛み、ウジが沸いてくるのを母親が懸命に取ってくれた。痛かった。それからは、被爆の話はしないことを父親から強く言われていたのでしなかった。
それから、数十年がたった時に、全電通広島県支部から、委員長はじめ役員の方が見えて、是非、被爆体験を話してほしいとの依頼が来たが、当初、父は頑として首を縦に振らなかったものの最後に許可した。それから自分は被爆体験を話すようになった。今でも多くの所で話をしている。
私は、何回か松木さんの話を聞いているが、84歳になっても元気に話をされている姿に感動した。(若干足元がおぼつかなかったが、交流会では元気になっていた)
その後、ピースポート共同代表の川崎 哲さんより、核兵器禁止条約で世界を変えると題しての話があった。「ICANは、2007年に発足して、現在までに至っている。ノーベル平和賞を受けたので、皆さんのきっと知っていることと思いますが、これはあくまで、一人一人の個人が参加して作っているものである。あくまでも、核兵器禁止条約、廃棄に関する条項を世界中で承認してもらい世界中から核をなくすことを実現したい。これに、核保有国が反対しているし、日本もアメリカの核の傘にいることで賛成していない。禁止条約だけでなく、被害者援助も求めている。是非皆さんの協力を」と話された。
その後、閉会の後、参加者がバスで3か所に分かれて、慰霊式会場に出向いた。
私たちは、基町会場に参加した。他は、袋町、比治山会場である。
式場到着後すぐに、黙祷、献花、懸水を行い、被災者の霊を慰めた。
そこで、解散となり、広島支部協の招待で、電話局は日曜日で食堂がやってなく、隣のホテルに移動して、懇親会をした。懇親会には、中央協派遣の支部協、大阪、千葉の仲間も参加し、楽しい時間を過ごした。ここで、私は、松木さんと積もる話を沢山し、楽しかった。
第2日目
朝8時40分にホテルのロビーに集合し、バスで出発、私たちは2班になり、平和記念公園に到着、ピースウォークで平和公園周りを見学し、その後、広島平和資料館を見学した。昼食休憩ののち、被爆建物を見学し、連合「平和広島集会」に参加する。2020年核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議に向けたシンポジウム。核兵器廃絶1000万署名に向けたキックオフ開催を行った。19時30分で集会は終了。
その後、広島支部協会長以下の役員と中央協からの参加者で懇親会をした。
第3日目
朝8時からワークピア広島で情報労連まとめ集会をする。
8時15分からの黙祷に会場から、テレビで参加。その後の平和記念式典をテレビで見るが、市長は核兵器の廃止の2020年核兵器不拡散条約に日本政府が参加することを求めたが、安倍首相は何も発言しなかった。まったくフザケタ総理だ。許せない。
今日は台風の影響で広島は雨だった。まとめ集会を行い。最後にピースリレーでピースフラッグが広島から長崎に渡された。
11時に解散となり、家まで無事に帰ることを確認しすべてを終了した。