情報労連広島ピースフォーラム2017は、8月4日~6日にかけて約200名が参加し開催された。
退職者の会は、支部協から・徳田(北海道)さん、兼子(茨城)さん、長井(愛媛)さん、米倉(宮崎)さん、中央協から川辺事務局長の5人が参加した。
一日目は、ピースフォーラムがワークピア広島で開催された。はじめに主催者を代表し情報労連柴田書記長は、『今年7月7日、「核兵器禁止条約」が国連で採択された。これは、広島・長崎の被爆者たちが核兵器廃絶に向けた今までの取り組みを国際社会が認めたこと。しかし、被爆国である日本がこの条約を批准していないことはまったく残念。世界的に右傾化が進む中、72年前のことを過去のことと思わず「創り育て守る平和」を今後とも地域で発信していくことをお願いする』等のあいさつをした。
続いて、被爆体験証言として、松木忠生さんから、『私は今年で81歳になるが、小学校3年9歳の時、爆心地より3.7キロの校庭で被爆した。被爆した時、胸のボタンが熱かった。服を脱ぐと皮膚が垂れ下がり、焦げ付いており、その後ケロイド状態となった。成長するにつれ、他人から「被爆者はうつる」と言われ、結婚や就職で差別にあってきた。だから被爆者手帳をもらわない人もいた。父が亡くなる前、「戦争のこと、原爆のことを若い人に伝えるよう」言われた』と語った。
松木さんは、NTT労組広島原爆被害者・二世協議会・副会長であり、退職者の会広島県支部協議会の前会長で、長年退職者の会の活動に尽力された方である。
この後、特別講演「核兵器禁止条約成立の意義とこれからの課題」について、ピースボート共同代表の川崎哲氏から講演を聴いた。特に、「核兵器抑止論は、核が使用されない前提の空論。サイバー攻撃や老朽化で偶発的に発射される可能性は否定できない。それより、核兵器廃絶交渉の取組みの方がよほど現実的」との話に納得感が湧いた。
次に、バスで慰霊式の会場に行った。退職者の会参加者は、電電公社職員の基金によって建てられたNTT基町ビル慰霊碑で平和への祈りを込めて、献水と献花を行い、全体行動の一日目を終了した。
その後、NTT基町ビル食堂で、中央協の参加者、広島県支部協、退職者の会のオブ参加者(大阪支部協、千葉支部協)21名と懇親会を行い、交流を深めた。
二日目は、午前8時40分出発し、班に分かれて、広島平和記念公園を中心としたピースウォークが行われた。
今日も暑い。風もあまり無い。気温はグングン上り、顔や身体からは、汗が噴出する。扇子は役に立たない。
そんな中、最初に訪れたのは、原爆死没者慰霊碑。ここには毎年、遺族等から届出があった名前が書き加えられ、8月6日の朝、石室に納められる。今年は、5,530名の名前が書き加えられ、合計308,725名の死没者名簿となった。次に、原爆の子の像、爆心地、動員学徒慰霊碑、原爆ドーム、相生橋、原爆供養等、韓国人犠牲者慰霊碑、教師と子供の像とまわり、午前中の最後に広島平和記念資料館を訪ねた。
原爆の前日とあって、全国各地から労組や平和団体、グループ、家族、外国人も大勢つめかけていた。この資料館は、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真、資料が展示されており、中には放射線や熱戦による惨状に目を覆いたくなるような写真もあり、きのこ雲の下の実相を垣間見た気がした。
午後からは、広島城内の防空作戦室、大本営、袋町小学校、旧日本銀行広島支店、御幸橋、赤十字病院、広島陸軍被支廠で今に伝える被爆建物を目のあたりにし、被爆の実相を見学した。
午後5時から、連合2017平和ヒロシマ集会が上野学園ホールで開かれ、全国から駆けつけた地方連合や様々な平和団体などの大勢の仲間とともに参加した。
集会では、黙祷の後、連合の逢見事務局長は「核兵器の悲惨さと非人道性を世界の仲間に訴えよう」と呼び掛けた。
その後、来賓あいさつや被爆体験証言と続き、若者からのメッセージとして、核の惨禍を世界に伝える高校生平和大使の活動は、1998年からスタートし、今年で20回目を数える。高校生平和大使は、「今年は、スイス・ジュネーブの国連欧州本部に高校生一万人署名を手渡し、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を求める被爆地の願いを伝えたい。」と語った。その中で「微力だが無力ではない」という決意が印象的だった。
続いて平和アピールを確認した後、午後8時から場所を原爆ドームに移し、連合主催の慰霊式が行われ、参加者は、献花し、朝から続いた長い二日目の平和行動を終了した。
三日目は、午前8時にワークピア広島集合し、平和祈念式典に映像で参加し、原爆が投下された午前8時15分に参加者全員で黙祷を捧げた。その後、広島グループ連絡会フレージの「地図から消された島」の発表を聞いた。広島県・瀬戸内海の大久野島では、1929年~1945年までの間、毒ガス工場が建設され、イペリト、ルイサイトガス、クシャミガスなどが生産された。日中戦争では、この毒ガスが使用され約1万人の死者が出たといわれ、敗戦時、日本軍は国際条約に違反した毒ガス使用の事実を隠すために、中国の畑の中や川の中などあちこちに毒ガスを棄てて帰った。中国の人達が農作業や下水道工事などの時、埋もれていた遺棄毒ガスによって被害に遭い、現在でもその後遺症に苦しんでいると言われている。大久野島でも残された毒ガスの処理は、海洋投棄・焼却・島内埋没され、環境の影響が心配されている。
毒ガスという国際条約に禁止された兵器を生産していたので、戦争中、この島は地図からも消されていた。戦争の加害者という側面からの発表だった。
まとめ集会では、水野情報労連組織対策局長は、「平和は与えられるものではなく、創り育て守るものである。参加者の皆さんには三日間で見て・聞いて・学び・感じたことを職場・家族の皆さんへ伝え拡げてほしい」とあいさつした。
最後に、沖縄からリレーされたピースフラッグが、山縣情報労連広島県協議会議長から上田情報労連長崎県協議会議長へと引き継がれた後、広島アピールを採択して、全日程を終了した。