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NTT労働組合退職者の会

トピックス

2016年08月26日
『情報労連広島ピースフォーラム2016』への参加

沖縄からピースフラッグされた『情報労連広島ピースフォーラム2016』は、8月4日~6日広島で約200名を集め行われた。

退職者の会・中央協からは、石原会長、上野副会長が、支部協からは、奥村・愛知県支部協副会長、須藤・青森県支部協副会長、北沢・長野県支部協事務局長、武部・富山県支部協事務局長、中久保・京都支部協幹事が参加した。

広島ピースフォーラム1日目は、参加者がワークピア広島に参集した。

まずはじめに、主催者を代表して平田情報労連中央副執行委員長は、「フォーラムを通じて平和とは何か、戦争とは何かを考え、持ち帰り、周囲の人に伝えて欲しい」と強調した。

このあと特別講演「知られざるヒロシマの真実と原爆の実態」については、爆心地復元プロジェクトによる被爆前の広島市中心部の街並みを復元した映像を見た。被爆前では、戦争中というものの、それぞれの人には、生活があり、人生があった。この世の地獄をCG画像で蘇らせた実にリアルな映像だった。

田邉・爆心地復元プロジェクト代表による話しを聞いた。

田邉さんは、原爆ドーム(県産業奨励館)の東隣に生まれ、奨励館を庭のようにして遊んだ。原爆当時は7歳、疎開先から戻り2日前に自宅の様子を見に帰った母と生まれたばかりの弟を探したが見つからなかった。CGグラフィックでは、人間は復元できない。アメリカは、日本がこれ以上戦争を継続できないことを知って原爆を落とした。まさに人体実験だ。原爆を自分や家族の身に置き換えて考えて欲しい」と述べた。

続いて、松木忠生NTT労組広島原爆被害者・二世協議会・副会長)が被爆者として証言した。

松木さんは「当時9歳、小学校3年、被爆中心地より3.7キロで被爆した。被爆した時は、校庭に銀紙が落ちてきたかと思った。パーツと光って胸のボタンが熱かった。皮膚が垂れ下がり、服を脱ぐと焦げ付いており、井戸水のポンプで水を掛けてもらった。教室に入ると生徒の身体にガラスが突き刺さっており、46人の子供が運びだされた。その後、被爆者が結婚や就職の差別にあってきた。父が亡くなる前に戦争のこと、原爆のことを若い人に伝えるよう言われた。」と語った。

松木さんは、退職者の会広島県支部協議会の前会長でもあり、長年退職者の会の活動にも専念された方である。

この後、バスで慰霊式の会場に行った。退職者の会参加者は、NTT基町ビルに行き、平和の祈りを込めて、慰霊碑への献水や献花を行い、1日目を終了した。

NTT基町ビル食堂で、中央協並びに中央協の参加者、広島県支部協、退職者の会のオブ参加者と懇親会を行い、交流を深めた。

二日目は、午前8時40分出発し、班に分かれて、ピースウォークが行われた。

それにしても太陽は、照り付け、気温はグングン上り、顔や身体からは、汗がほとばしる。

最初に訪れたのは、広島平和記念資料館。全国各地から労組や平和団体、グループ、個人、外国人も少なくなかった。この記念資料館は、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料が展示されている。この日は、かなり、混雑しており、やや駆け足となったが、放射線や熱戦による被害の惨状に目を覆いたくなるような写真を目にした。

その後は、原爆死没者慰霊碑、原爆犠牲国民学校教師と子供の碑、韓国人原爆犠牲者慰霊碑、原爆供養塔、慈仙寺跡、原爆ドーム、動員学徒慰霊碑等を訪れた。

午後からは、広島赤十字病院、御幸橋、広島陸軍被支廠、広島大本営跡から中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)、袋町小学校平和資料館を見学、原爆の爪痕を今に伝える被爆建物を目にした。

午後4時30分からは、連合2016平和ヒロシマ集会が広島市文化交流会館で開かれ、全国から地方連合や様々な平和団体など2,714名が参加した。

連合の神津里季生会長は「核兵器の悲惨さと非人道性を世界の仲間に訴えよう」と呼び掛けた。

本年5月、現職のアメリカ大統領が初めて、人類最初の原爆被災地を訪れた際に、オバマ大統領と対面した坪井広島県被爆者団体協議会理事長が被爆体験談を語った。坪井さんは「爆心地から1・2キロ。ピカーと光が、慌てて、目と耳を塞いだ。意識がなくなった。気づいたら爆風で何メートルも飛ばされていた。煙と土埃で100メートル先が見えない。見ると、服はぼろぼろで腕からドクドク血が流れ、腰からは黒い血が噴き出していた。やっとの思いで歩くと、地獄だった。右の目玉が頬にぶら下がって、歩くたびにポロンポロン動いている女学生がいた。飛び出した腸を押さえながら逃げるご婦人もいた。どこが顔だか首だか分からんような人ばかり。御幸橋に治療所ができたと聞き、行った。でも治療所なんてない。もうだめだとへたり込み、最後の腹を決めた。<坪井はここに死す>。と書いた。似島の臨時野戦病院に運ばれた。私はずっと気を失っていた。数日後、故郷の音戸からおふくろが私を捜しに来て必死に叫び回ったらしい。その時、意識のない私が手を挙げ、それで助かった。終戦は知らなかった。」と地獄のような時を過ごしたことを語り、最後に「自分のことだけを考えていたのでは人類は滅亡する。どんなことがあっても平和を忘れてはいけない」と強調した。

そのあと、若者かからのメッセージでは、1998年から高校生大使が誕生し、国内外で、核廃絶に向けた様々な活動を行っており、15年間で核兵器廃絶の署名を133万7,598筆集めたことが報告された。その中で「微力だが無力ではない」という決意が印象的だった。

ヒロシマからの平和アピールを確認した後、午後8時から場所を原爆ドームに移し、連合主催の慰霊式が行われ、参加者は、献花し、長~い、長~い2日目の平和行動を終了した。

3日目は、午前8時、まとめ集会会場であるワークピア広島に集合した。

平和祈念式典を映像で参加し、原爆が投下された午前8時15分に参加者で黙祷を捧げた。

その後、広島グループ連絡会frage発表「地図から消された島」を聞いた。

広島県・瀬戸内海に大久野島がある。ここでは1929年~1945年までの間、毒ガス工場が設置され、イペリト、ルイサイトガス、クシャミガスなどが生産された。

その約半分が国外に持ち出され戦争に使用され、日中戦争では約1万人の死者が出たといわれ、敗戦時、日本軍は国際条約に違反した毒ガス使用の事実を隠すために、中国の畑の中や川の中などあちこちに毒ガスを棄てて帰った。中国の人達が農作業や下水道工事などの時、埋もれていた遺棄毒ガスによって被害に遭い、現在でもその後遺症に苦しんでいると言われている。

大久野島の残された処理は、海洋投棄・焼却・島内埋没によるが、環境の影響も心配されている。毒ガス兵器という国際的に禁止された兵器をつくっていたので、戦争中はこの島は地図からも消されていた。戦争の加害者という側面からの発表だった。 

まとめ集会では、中野情報労連組織対策局長は、「見て・聞いて・感じたことは熱く心に刻まれた。中身の濃い体験をした。一人ひとりが考え、見て、聞いたことを自分に身を置き換えて考え、知らなかった人に伝え、共に歩もう」とまとめた。

そして、ピースリレーが、山縣情報労連広島県協議会議長から上田情報労連長崎県協議会議長へと引き継がれた。

最後に、広島アピールを採択して、閉会した。

NTT基町ビルで慰霊碑への献水・献花を行う中央協と中央協派遣者、広島県支部協の参加者
71年を迎えた原爆ドームを背景にした中央協と中央協派遣者

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